プロフィール

社会人2,000人の心理相談から導いたシンプルマインドメソッド!

心理カウンセラー 澤田 瑞穂

沢山のサイトの中よりお越し頂きまして
ありがとうございます

初めまして。

心理カウンセラーの澤田 瑞穂(さわだ みずほ)です。

私は会社員勤めしながら、いろいろな心の悩みを絶えず抱えて葛藤し続けてきました。

気が付けばキャリアウーマンとして30年近く、勤務してきました。

そのまま組織で働き続けば、

最終職位であった部長職から打診のあった執行役員にも手が届いたのに

なぜ、カウンセラーになったのか?

悩みをしっかり解決するには、カウンセラーとの相性がとても大事になってきます。

そのため少し長いですが、私の生い立ちを含めカウンセラーになるまでのプロフィールを書きました。
是非読んでみて下さいね。

目次

感情に蓋をした空虚感に苛まれた幼少期

商売家業の家に生まれ、大きなお家で何不自由ない生活でした。                          幼稚園のころというと、お人形をもらっても見向きせず、木登りしたり、探検したり、外で駆け回るのが大好き活発な子でした。
未熟児で生まれたものの、とても健脚で水泳も大好き、先生とは仲良しで何でも話しが出来るし、学校は楽しくてしょうがない女の子。

しかし、そんな生活は、ある日突然終わるのです。                                 それは小学校4年生のある日、
母親より詳しい理由なく別居する事になったから、父・兄と離れ離れになることを告げられ、あまり事態を呑み込めないまま翌朝を迎えました。
転校の挨拶をしてクラスメートに正門まで送ってもらった時の風景は                          今でも鮮明に覚えています。                                                   学校を去る私、私の家族は悪い事をしているような面持ちで、                                初恋のクラスメートの顔を見ることも出来ずに、生まれ育った土地をあとにするのです。

駅のホームで両手に鞄を持ったまま、暫く立ち尽くす母親、                               私は不安ながらも、ただ黙って一緒にいたのでした。                                          専業主婦だった母親はマンションの部屋一つ借りることが出来ず、                            結局、夜遅くに母親の知人宅に着き、一夜を過ごすことに。                                アパレル会社を経営されているため、部屋にマネキンが沢山置いてあって、                        夜、マネキンの中を通って、お手洗いに行くのが怖かったのを覚えています。                         その後、母親の友人宅の6畳部屋を間借りして、しばらく同居させてもらう事に。
慣れない土地で、片身がせまく、私学から転校した公立校に馴染まず、                            ただただ、下を向いて黙って感情を出さない子に変わってしまうのです。
みんなと違う黒のランドセル、私服は同じ洋服ばかり、恥ずかしい・・・                            初めての給食にも慣れない、バターや牛乳嫌いな私にとって地獄、だから
お昼時間は苦痛、食事する時も休憩時間も友人を作ろうとせず、                      一人で過ごす日々。
「暗い穴の中にいるみたい、人生ってこんなもんなの?」
「学校のみんな、先生もクラスメートも道行く人も、
 私のことを見て笑っている。。。
「逃げたくても、逃げるところがない」

その後、転居に伴い又、転校をした所ではいじめに合い、                                    その頃は空虚感で人生のページが抜け落ちていたと言っていいでしょう。

灰色の中学・高校時代

中学になった時に両親が復縁し家族4人、新しい家で生活を始めることに。                                           そこでは、幸せとは程遠い
生きた心地のしない最悪の日々が待っていました

兄は母親に捨てられたと思い込み、母親への反抗が強まるばかり。                                  実は別居する時に、母親は兄が妹と一緒に行くとダダをこねると
言うことを聞かないと考えたから、何も言わなかったのです。                      兄にとっては、黙って家を出ていった事は捨てられた事と同じだったのです。

部屋の中は煙草臭く、母親が換気をするものなら金属バッドを振り回し、                                   どうにも手をつけられない状態に。                                              家庭内暴力に成す術がなく母親は怖がるばかり。 

誰かが帰ってきたら、息を殺すかのように各々が部屋に閉じこもり、事実上の家庭内別居状態。
私は周りに見える世界全てに色を失い、太陽も空も海も山も全てグレー色、                       何を食べても、味も香りさえもしない。                                                   いつまで続くのだろうと、
感情のセンサーは完全に壊れてしまいました

そして高校の時、ついに両親は離婚、父親が兄を母親が私を養育することに。                      その時には、既に兄は寮生活の男子校に無理やり入学させられていたので別れを告げることもなく、家庭は完全崩壊となりました。                                                       母親の私に対する期待は以前に増して強くなり、学校でいじめられている事など言えるはずがありません。                                 成績上位で大学進学するという母親の期待に応えるために私は、来る日も来る日も勉強漬けの日々を過ごしていました。

女性は腰掛けで働く時代の違和感

短大卒業後に入社した時代は男女雇用均等法なんてない時代ですから、                  私の仕事はまず、毎朝、課員のお茶を入れる所から始まる。                             当時、課員は男性が5人で、一人ずつ熱め、ぬるめ、お茶じゃなく、ミルクコーヒーと砂糖多めとか個人の趣向も間違わず、各自の専用カップで提供。
しかも、給湯室に入るのはお局様からという暗黙の順序があり、後の順番になる私は遅くならないように、気を遣う始末。自動販売機が設置されお茶出しが廃止になったのは、それから2年後でしたね。本当に時代とは変わるものです。                                              当時、女性はクリスマスが賞味期限と比喩され、学校卒業して3年間ほどお茶やお花など花嫁修業をして24歳までに結婚するのが当たり前。                                         ですから、新卒で入社して1年もすれば、同期は一人そして又一人と寿退社していくわけです。
「親が勧めた縁談、良い家柄、大企業に勤めであれば、本当に幸せになるの?
両親の離婚を見ていた私にとっては、“おめでとう”祝福の言葉にはいつも違和感がありました。
おめでたい事なのですが、仕事に慣れてきたばかりなのに、「彼女達は何故、就職したの?」と感じて。                            そして同時に「私って、結婚するの?」束になっているお見合い写真は見る気もなく、                    「いつまでにしなければならないの?」って。                                         その後の人生でずっと、世間の目と昭和生まれの超保守的な母親の期待に窮屈さと共に生きるのでした。

『キャリア』という言葉もその当時は未だありません。                                     だから、女性がやりたい事を仕事にしたいってキャリアチェンジ(転職)することは珍しいことで、少数の女性だけが総合職で入社して活躍。                                                        そんな時代に私は同じ会社にいた彼氏と結婚前提にするものの煮詰まらず、自分探しに大手の会社を早々に飛び出したのですから、今思うときっと変わっていたんだと思います。

毒親という重い鎧・鎖の苦しさ

母親は離婚後、パートで働きながら、祖母の介護もあり、それは大変でした。                             私はそんな母親の顔色を常に気にしながら、相談もせず自分で出来ることをしっかりやっても、                     話を聞く前に勝手に解釈され叱られる始末。                                 成績が良ければ褒められると思って頑張っても、何をしても誉めるどころか、「今度はもっと。。。」とあっさり終わるだけ。優しく喜んで欲しかっだけなのに。。。                                          常に私の敷地にノックせずに土足で入ってきて、 

「あなたのため」
「あなたにはこっちが良い」
「昔からこういう風になっているもの」
世間体を気にする親の押し売りのオンパレード。                                            でも、母親を困らせてはいけないと、自分の気持ちを口に出したり、一度も口答えしない良い子になるよう必死でした。
「あなたが赤ちゃんの時、安全を第一に前身でずっと背負っていたから、首が外れて手術した所が今でも痛い」、
「成人式の振袖は老舗呉服屋さんの仕立てで高値なもの」と何度も恩着せがましく聞かされる。
高校の卒業記念として初の外泊旅行に反対され、どう調べたのか勝手に予約取消された事、漫画は頭に良くないから読むものではないとして、友達から借りた漫画を破り捨てられた事、
髪型を変えたら前の髪型に早く伸ばしなさいと強制された事。思い出すだけでもきりがないエゴという身勝手な愛情に、心は窮屈さで生きづらさ一杯

6年間続いた祖母の介護が終わった時、母親のキリキリした緊張感から開放されると思う期待は外れるのです。

出会いと別れ
幸せ→結婚→穏やかな家庭への憧れ

24歳の時に予期せず、素敵な出会いが訪れ、結婚話はポンポンと進む。                       勤め先にも結婚報告し、幸せ一杯で準備を進めていたものの、その結婚は破談に。                          母親がお相手の親族と揉め確執が解けず、私が結婚するなら縁を切る、家の敷居は二度と踏んではならないと強く迫られ、私は泣く泣く身を引くしかなかった。                                       

30代になっても、私が選ぶ結婚相手を母親には認めてもらう事は決して無いのです。                  ある時、母親は盗人呼ばわりで相手の頬をビンタして彼を傷つけてしまうことも。                       40代の時は子供を諦め、結婚をあえて考えないようにしていました。
しかし、お相手の優しさから、母親に「その時お付き合いしていた方と一緒に住まない?」と話を投げかけてみました。予想もしない言葉が返ってくるのです。
相手がどのような方なのか詳しく聴く前に私より年齢がかなり上というだけで、「そんなおじいさんと同居なんて気を遣うから嫌」と、話をそれ以上聞いてなんて貰えず。
結婚という形を望んだばかりに、大切な人をまたもや失ってしまった自分の弱さに自分を責めるばかりでした。

社会人生活の浮き沈みとキャリア転換

日進月歩する会社の経営方針に翻弄されながら、浮き沈みのある社会人生活。                       昇格もあれば、降格にもなる。                                             40歳手前には課長として、ようやく落ち着いて充実した社会人生活。                            しかし、そのうち、ヘニャチョコ上司にキャリアに行き詰まりを感じるようになり相談しても、全く頼りにならない。
何のための上司なんだろう!
『そんなん適当に楽しんでやっていたらいいやん!』、私の企画で目標達成したのに、手柄は一人占め。

女性の社会進出がメディアでも取り上げられるようになったとは言え、まだまだ男性社会。
こそっと、私のゴミ箱をあさってチェックする輩まで、用心用心。
私の求めているものは昭和のマネジメントスタイルではない。もっと勉強がしたいと思って大学に編入して組織心理学を専攻。そして、大学を卒業後、人事への異動辞令が出て新たなキャリアを歩み始める。                        これが、今のカウンセラーとしてのある意味、偶発性とは言え、後の出発点になろうとは、その時は思いもしていませんでした。

初めてのカウンセリングは涙涙

大学のスクーリング履修においてカウンセリングの模試授業で、先生に母親の過干渉が理解できない事を生相談。
未婚の祖母に育てられ、離婚してから父親代わりをする気丈な母親は自分の人生を生きているのではなく、私という人生を通して、自分の人生の価値を生み出そうとしている。

だから、冷たく出来ない! 母親が間違っていても、親だから何でも聞き入れる                           でも、母親の鎧・鎖を脱ぎたい
いままで誰にも言えなかった気持ちを不思議に一気に吐露したのです。

先生はあたたかいまなざしで一言
「それでいいんですよ!」 

はじめて受容された!

嘘のように開放されたカウンセリング体験。
もう母の想い描くロードマップから解放されていいのだと思うと、                            なんか心が急に軽くなり涙が止まらなくなったのです。
こんなに感情が溢れることは初めてのこと。

ある時、母親の納得のできない厳しいこうあるべき論に対して、大学の先生の言葉を思い出して、              「私の幸せを潰したくせに、何いっているの!」
とうとう、私のマグマは噴出。
母親はあなたの為にと言おうとしましたが、間髪入れずに「あなたの気に入る人なんて、日本中探しても何処にもいないのよ!私はあなたの私物ではないから、あなたの人生と私の人生は違うの、これからは自由にします」と抑えつけていた気持ちをはじめて言葉にしたのです。
自分でも驚きました。
流石に母親はその後、一言も発することなく、まるで家の空気が逆流した感じになりました。

ただ同時に、母親から縛られていると思っていた私ですが、自らも「幸せになったらいけない」その資格がないと扉を強く施錠していた事に気づいた瞬間でもあったのです。                                      結婚という形が幸せになること全てではない、私なりの大人の付き合い方で幸せを感じている。そして、何よりもそのことに気付かせてくれたことに感謝しています。

父の突然の死、遅すぎる後悔

両親が離婚した後、再婚した父親とは一度も会うことは無かったものの、                   いつか会えるだろうと想いは心の奥に綺麗にしまい込み、仕事に忙殺される日々。                しかし、突然に父親の逝去の知らせを受け取る。                                 全く、予期しない、あまりにも早いお別れに信じられない気持ちで、
「何が起こっていたの?」
わけが分からなく、
「どうして勝手に死んだの」って、
一気に言いようのない怒りと後悔に押し潰される
しかも、連絡を受けた時、私は地方にゴルフ旅行に行っていた為、当時はまだスマホも誕生していない携帯電話の電波が良くなく、1日遅れの受取。父親がゴルフはプロ級の腕前を持っていたので、ひそかにいつか一緒にプレイできる日を楽しみに。父親に笑ってもらいたかった。一緒にプレイできる父親を自慢したかった。

母親に黙って、千葉の病院まで駆け付けた時には既に父親は火葬されていて、対面も果たせず。                                                       何もかもが納得できず死んだことを受け入れられず、看護婦さんより診断書の写しを入手。              定年を迎え再出発を願っていた父親の無念さを感じ、帰路に着く。                          後日、お葬式で祭壇の遺影写真が再会となり、目に焼き付けるように眺め、存在しない父親像をギュッと抱きしめている私。再婚相手の方、結婚されている娘息子さん、そしてお孫さんの姿を拝見して、より一層、父親に対する愛しさが募り、「もっと早くに再会したかった」後悔が遅すぎることに気付く。

私の恋愛はいつも、年上で仕事が出来る人で、優しく魅力的でかつ色好みの人が多かった。それは、きっと父親像を重ねていたのに違いないと気づくきっかけになりました。

脅迫恐怖と将来不安の日々

父の死後、大きい重荷を新たに背負うことに。                                    父の死を通して、15年以上ぶりに兄と再会したことが、引き金に。                        母親を恨むばかりでなく、妹だけが母親からの愛情を一人占めして幸せに暮らしてきたとして、                高校中退で仕事が不安定な兄はお金の要求を、拒むと嫌がらせをされ、私には会社にまで行くと脅される始末。警察に相談するも暴力など犯罪がない限り、取り合って貰えず苦悩。精神的に限界を迎え、私は暫く一人暮らしをした後、マンションを購入し、母親を引き取り一緒に暮らすことを決心。その後、市にも相談にのってもらい、出来る限りの対策を講じ、一切の交流を遮断したのです。
恐怖と将来への不安は常に心に居座り続けるばかり。辛さと恐怖に、もう記憶を固く封印するのでした。
恨みが生きる力になり、強い執着心が何かで兄の行為が犯罪に発展することがないよう、ただ幸せを祈るのでした。
それから、17年後のある日、兄の逝去の知らせを受取るのです、享年53歳。父親に続き、短命でした。天国では穏やかで自由な生活を送って欲しいと祈るばかりです。

カウンセリングを受けて生きることに感謝

兄の死後、半年も絶たず、愛犬が18歳の人生を終えることに。                             たまたま外出をしていて、最後を看取ることが出来ず、一人で旅立たせてしまった。                    認知症を患い、寝たきりになっても、時折見せる笑顔は家族にとって最高の栄養剤。                         愛犬がいない家の中は火が消えたようになり、寂しさで毎晩泣かずにいられない日々。                        相次いで家族を失ったことで、封印していた父親の過去の『死』も溢れ出てきて、                          私の中でとても受け止めにくい苦しく大きなものに。家族のことを話すのは「恥」と思っていたものの、すがる想いでカウンセラーを頼り「死」を受け入れられない事を打ち明けました。
亡くなった人と対面する感覚は激しい不安感がありましたが、カウンセラーの方との相性が良かったのも相まって、セッションの回を重ねていき、ついには亡くなった家族とこころで対面し気持ちを伝えられてから、嘘のようにこころが楽になっていきました。                                                                「みんな、私のことを責めていない」                                                洪水で濁流となって溢れだしていた水の流れが、自然に静かな流れに戻っていき、自分だけが生きていることを否定することなく、安心感に満ち溢れていきました。                            今、私がここにいるのも両親あってのこと。兄の分も生きなければ。                              私は今、心の中で生き続ける愛犬と共に、ここに生かされていることに感謝しかありません。

キャリアウーマンとして順調だけど、
疑問を抱く「本当に社会貢献になっている?」

気がついた時には上場企業の部長職に就いていました。                            半月連続で出張していた時もあり、何より仕事を優先し、月100時間残業なんて珍しくない、                キャリアウーマンに。

しかし、会社の発展と比例してメンタルダウン者が増加、職制としてそのような社員の心理相談を実施する。
相談内容は様々で、ある社員のメンタルダウンの原因が部門の管掌役員によるパワハラにあることも。
それが、どうしたものでしょう。
時が経ち、パワハラを指摘された管掌役員が異動となり、私の直属の上司に。
最初の頃は良好な関係性だったものの、1年経過してから、終わりのないネチネチとしたパワハラが私を襲ってきて、苦しい日々に苛まれる。管掌役員本人は、永年勤めた古巣の会社で負った出世遅れとなったトラウマを克服出来ずに、その裏返しでパワハラな言動は無意識の行為。
当時は過重労働となる勤務をしながらでしたから、疲れ果てて、家に帰って寝るだけの会社と家との往復の日々。女性だからと言われないように女性管理職として頑張り過ぎてしまう自分。毎日毎日、社内のどこかでSOSやトラブル、それを優先していて自分を大切に出来ない。管理職ゆえに相談も出来ない。帰宅時の深夜電車の窓に映る自身の顔を見て、
「何のために働いているのかなあ?」と 冴えない顔をしている自身の顔に問いかけてみる。                                                   勿論、生活のためが正直な所、そのころ、社員は家族と思って守らなければという使命感みたいな気持ちが強く突き動いていたものの、本当の意味で社会貢献になっているのかと疑問を感じ始めたのです。

脳に働きかけるだけの治療の苦しみに寄り添う

うつ休職の治療のある部署の管理職より、体調不良で医師の診断書を持参してきた社員の対応を依頼され面談実施。診断書には「1カ月の休養が必要」とだけ記されているだけなので、対象社員にどのような状態なのか詳細を聞くと、薬を服用して1カ月位経つものの、薬が合わない感じがすると。それなら、医師と相談している?と聞くと、その社員は黙るのです。                                                   大人しい社員は詰まる所、自身から医師に何かを聞くという事が出来ず、医師がその社員に伝えたのは「あまり細かい事を気にしないことですよ。気持ちを前向きにしてください。お薬出しておきますね。」以上。長い時間、診療を受けるまで待って、それだけの診断。                                   結局、私は衛生管理者として、産業医と連名の書面を携えて、医療情報の開示を求めに、その社員と一緒に病院を訪れることに。その社員は私には苦しさを訴えられるのに、医師に薬の副作用があることを相談出来ないという点に課題があったから。                                       医師からは、「薬合わないのだったら、他の薬を出しておくから」と最近の体調や気持ちを聞くということも無い、あっさりとしたもの。
他のうつ休職者の中でも、免疫力が出来たせいで、どんどん、きつい薬を多量に処方され、副作用で症状がより酷くなり終わりが見えない苦しみと戦うなんてことは、少なくない。
管理職に抜擢され意気揚々と元気だった社員が、半年もしない内にスピンアウトして薬漬けになることも。こころに働きかける心理相談を通して、ただただ一緒に寄り添うのでした

様々な要因で発生するメンタル不全、
早期予防出来ない無力感。

メンタル不全がおこる社員には様々な要因が。

会社のセキュリティカードを紛失した事が重大な過失と思って、出勤できず引きこもりになる社員。
ご両親が厳しい教育者だったこともあり、もう自分は駄目だ、会社から解雇される不安を感じたことが原因。自部署内で課員通しの責めるやりとりを聞いていて、次は自分がパワハラを受ける番になると感じてパニック障害になってしまう社員。課員の声が聞こえたり、半径1m以内に立たれるだけで恐怖を感じたことが原因。
今までに無いようなミスするようになった社員、奥さんが育児ノイローゼになって家事全般をしていたことで疲労が蓄積していた所に、上司より叱られて行き場がなくなって蒸発。
人間関係に悩み、給与アップを願う奥さんの期待に応えられず、将来不安に悶々とする社員、共働きの社員の子供が不登校になって、残業ができず上司との人間関係がギクシャクして体調まで崩す社員。
彼氏のDVが原因で仕事に集中できない社員。
父親が直ぐにカッとなって怒ってしまうのが嫌なのに、自身も同じように怒りを自己コントロール出来ない不安定な社員。
心を緩ませる環境が十分にない状況である事を間の当たりに。                                                    就業規則上の休職期間に復職が出来ず、残念ながら退職に至ることも珍しくなく、どうして人材を失うの?!とこころで叫んでいました。
会社は人材リスクより、売上達成の成果を最大優先する中で、一人一人に関われる時間には制約があって時間が十分に取れない。もっと、彼、彼女の心に寄り添いたい。
無力感が残る
もっと、私に出来ることは無かったのか?

心理的安全性に欠ける組織は簡単には変わらない

うつ病の発症の仕方には環境要因、性格的な要因、医学的な要因、それら要因はきれいに境目があるのではなく、様々な要因が絡み合っていることがほとんど。

上司や同僚のメンタルヘルスの理解やサポートが重要、部下のいつもと違う変化に早く気づく、早期予防が非常に有効にも関わらず、見逃されて現場から健康相談室にメンタル不全の情報があがって来た時には、既に重症化して、大概はもう遅い、遅すぎる。                                         もう一つに、責任感ある社員は、自分で抱えてしまい周りに聞けない、SOSを出さず、無意識に更に頑張らないといけないと無理をしてしまう傾向があり、ある日、突然に体調が悪くなり、正常な判断が出来なくなったり日常生活に支障が出てきたりするケースがほとんど。外部環境の影響で、自分の力が及ばない時は周りの力を借りることは、決して悪いことではないにも関わらず。
なぜ? なぜなの?
聞きにくい社内の雰囲気、助けてと言えば悪い評価に繋がるかも。。。
心理的安全性に欠ける組織。
組織風土は簡単には変わらない。                                                  もう一人もメンタル不調者を出さない、出したくないという想いが時間と共に強くなり、更にセミナー通いや書籍などあらゆる手段で心理学の勉強を深めていきました。                                                    私は長く働いてきたけれど、本当に社会貢献になっているの?                                         本当の意味で人に役立つということはどういう事? モヤッとして、自問自答する日々が続くのです。

プロのカウンセラーとして新たな人生を踏み出す

ある日、友人より息子さんのカウンセリングを一度して欲しいと頼まれ引き受けました。                   彼は仕事に悩んでいました。時折、不安や怒りの気持ちを吐露しながら。                                   そしてカウンセリング終了後、彼はつきものが取れたとして、直ぐさま母親である友人に舞い上がって電話。
なんで、もっと早くにカウンセリング受けなかったのかと」それを聞いて、                               誰かの役に立ったと心の底から実感。                                          悩みや課題の原因や要因の排除ばかりに注力するのではなく、自分の感情に触れることで、                       人は悪循環を断ち切り、自分を取り戻すことができるのです。                                       カウンセリングをしている時の自分は自分らしくいられ、感謝されることが嬉しい。                       周りにキャリアを捨てるのは勿体ないと言う人いましたが、                                             私は組織より独立して、カウンセラーとして自立していこう。                                  心理学の学びを、もっと組織の外から人の役に立てるために活かしていく決意を固める。

あなたのこと、一番分かってくれている人は誰ですか?                               自分のことを分かってくれていますか?                                職場の管理者? パートナー? 
彼女? 友人? お医者様?                                                       身体は理解していても、その人達に本当のこころ、気持ちまで理解してもらっていますか?

私がカウンセラーに頼って、無意識の自分も全てを自己解放されました。                          幸せ・感謝スイッチを押すことで、時をかけてゆっくり、あらゆる悩みが統合されたのです
ぐちゃぐちゃな葛藤が絡み合い、一見、複雑に思うことも
私の経験に基づく『シンプルマインドカウンセリング』で解れていきます。

あなたも一歩、踏み出すことで今の苦しみから抜け出しませんか?
恥ではないんです

いつも周囲の顔色伺いや評価を気にして本当のことを言えない                       頑張っているけれど、自分のやりたいことではない

いろんな悩みがぐちゃぐちゃしている

今、色々な悩みがぐちゃぐちゃで悪循環となり、自分で抱えて苦しんでいるなら、                    生きづらいと悩んでいる方、短期間で整理して、根本から解決してみませんか

幸せ、感謝スイッチを押すことで、私が今までいくつもの悩み苦しみから解放されたように、あたなもカウンセラーに頼ってみては如何ですか?

諦めてしまっている人生なら勿体ない。ひとりで抱え込む苦しさ、誰かに頼っていいんです。

あなたのライフキャリアはあなたが幸せ・感謝スイッチを押すことで手にいれることはできます。

その一歩を踏み出せば、今のぐちゃぐちゃな人生は変わっていきます。

誰のものでもない、
あなたの人生が穏やかで輝いた幸せな人生になりますように。

最後までご覧いただき、ありがとうございました。